昭和42年9月30日 夜の御理解       




 御理解第14節に、神は荒地荒れ屋敷をお嫌いなさるという御理解がございます。荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる。ですから、もう、神様がお嫌いになることをして、おかげの頂けるはずはございませんから、もう、荒地荒れ屋敷を、もう、荒地にせず、荒れ屋敷にせぬ精進。または、そういう努力というものが、神様に喜ばれるということが分かります。ね。神様は、荒地荒れ屋敷をお嫌いなさると仰るのですから。
 明日、七時からお月次祭に併せまして、ここの合楽教会の、基礎とも土台とも言う時代の、椛目時代から、こう、合楽に参りましてからでもですけれども、ここで修行をなさりましたり、ここで総代の御用を頂かれましたり、様々にここの、まあ、言うなら合楽教会設立の基礎とも土台ともなられた方達の御霊様が、二十名おられます。ちょっと、寄らせて頂きましたが。
 その二十名の方達の霊祭を、私が祭主としてから、奉仕するわけでございます。(前がない?)。もう、本当になつかしい御霊様ばっかりでございます。まあ、皆さんも古い御信者方は良う分かるでしょうけれども、知っておってございましょうけれども、あの、北野から(とださん)というお婆さんがお参りしておられました。もう、それこそ、まあ、実意丁寧、熱心な方でしたが。
 もう、あの当時、もう、お導きにかかれましてですね、もう、色々、たくさんな人が導かれました。現在の総代さん達であります、あの、北野の堤さんなんかも、やはり、この、御霊様のお導きでございました。まあ、今は亡くなられまして、その後が信心が続いておりませんから、言うなら、ここの信心としては、まあ、後もほろけもないのでございますけれども、もう、そういう、例えば、いろいろ功労のあられた御霊様たち。善導寺の吉田さんとかですね。また、善導寺の原よしはるさんあたりなんか、もう後がどこにおられるか、弟さんがどこにかおられたそうです。弟さんの行方すらが分からないといったような御霊様たち。
 まあ、私にとっては、大変なつかしい御霊であると同時に、まあ、言うならば、私の非常に手をかけた信者でございます。まあ、言うならば、場合には私を寂しがらせたり、泣かせたりした御霊でもあります。けれども、これは不思議なもんですね。手が入っていれば入っておるほど、慕わしかったり、なつかおしかったりするもんです。そういう御霊さんたちが、まあ、新しい御霊としては、最近の久保山先生の御霊様とか、総代でありました田代さん辺りの御霊様辺りが、その二十名の中に入っておられます。
 そういう、私にとっては、本当にあの、なつかしい御霊様達ばかりでございますが、この御霊様の(地鎮祭?)を思い立ったのも早くからでございましたけれども、私がここへ、ここで教会長として、ここの教会設立者として、教会が認可され、私がその教会長としてお許しを頂ける日が来たら、もう、必ず、さっそく、この御霊様たちの願いでもあり、祈りでもあったのですから、報告なり、その慰霊祭を奉仕したいという願いを持っておったんです。
 それで、もう私、明日のことの御霊様のことに限ってはですね、もう、ここでいくらお金を使ってもいいて、私が祭員の方達に言いよったんです。明日の御用をなさりします。もう、そげなん、本当、記念品にしなさっちゃ、送りなさったっちゃ、もう、後も形もないごたもる縁の遠い人たちが受けなさる人に何になりますかというなというような人もありますけども、そんなことは問題じゃない。
 もう、私は問題は、その、御霊さん達に喜んでもらいたいというだけの、その一念で、まあ、明日は仕える訳でございますけれども。それにですね、話そうとすると、心に喜びが湧いて来る。思うと、心の中に感激が湧いて来る。明日のことを思うただけで、心の中に感激が湧いて来る。私は思うんですね。教祖の御教えの中に、いわゆる、荒地荒れ屋敷をお嫌いなさるということは、私どもの周囲にどのくらいおかげの頂けれる場というものが、いわば、荒地が荒れ屋敷があるか分からないのです。ね。
 まあ、例えて申しますならば、ね、夫婦の仲が荒れておると致しましょうか。夫婦の仲が円満でないと致しましょうか。それを円満にして行くということは、もう、荒地を耕すということと同じことですから、そこに、夫婦の仲の良いその中に、親子が仲が良いその中に、誰彼との仲に円満なおかげを頂かせて頂けれるということの中に、いわゆる、荒地が、ね、見事な田にも畑にも、おかげの頂けれる場になって行くのです。目には見えないけれども、私どもの先祖。または、明日、私どもが奉仕させてもらう、その御霊様達の、私はお喜びを、こう、蘇らせるということはです、ちょうどそれは、荒地荒れ屋敷を開墾したり、または、そこに何と申しましょうかね。手を入れれば救われる、手を入れれば役に立つ。
 そういう、いわば、手を入れ、修理をするようなものではなかろうかという風に思うのでございます。御理解14節にある、ただ、見過ごせば、もう、それまで。此方は荒地荒れ屋敷をお嫌いなさる、と。ね。自分達の周囲に荒地荒れ屋敷があるということもですけれども、本当を言うたら、自分の心の中に、自分のまた周辺に、ね。または、私どもと御霊様との間の中に、荒地荒れ屋敷がたくさん残されておる。
 開拓して行けば、まだ、おかげの頂けれる、荒地荒れ屋敷が何ぼうでもある。そこんところを開拓して行くところのおかげを頂かせてもらうことがです、神様が喜んで下さるということが分かります。
 荒地荒れ屋敷を、ね、お嫌いなさるということは、もちろん、私どもの心が荒れておっても、親子の仲が荒れておっても、夫婦の仲が荒れておっても、ね、様々な、その問題がこんがらがっておるということは、もう、そこに、そこんところをきれいに信心になって行きゃあです、おかげの受けられる場がそこにあるのですけれども、そのおかげの受けられる場を、荒地荒れ屋敷にして、どんなに喜びの信心をさせて頂いても、一つも育たない。一つも、信心が育たない。実にも花にもならない。
 まあ、私どもの周囲に、そうした荒地荒れ屋敷になっておるからなんです。ね。そういう意味合いで、私は明日の御霊様達との、まあ、一つの特別の交流というものが、まあ、本当に今から待ち遠しゅう思いでございますけれども。ね。そこから、私の心も弥が上にも耕し、御霊様達のお心の上にも、いよいよ、喜びの心が広う、深うなって行かれることであろう。
 そこから、良いものが生まれてくる。そこから、よい芽が出て来る、花が咲いてくる、実が実ってくるという、おかげが受けられる。私は今晩、初めてその、この荒地荒れ屋敷ということについての御理解を、そういうような意味合いにおいて頂きました。これは、えらい簡単な御理解ですから、ただ、荒地荒れ屋敷ていうのは、自分ところの近所に荒れた畑があったり、屋敷があったりしたのでは、神様がお喜びにならんから、草をとったり、耕したりすることが、というだけではなくて。
 そういうような、人間関係の上やら、御霊様との関係の上やら、様々な問題の上にも、荒地荒れ屋敷が私どもの周囲にいくらもあるということです。そこを、一つ耕させて頂こうとする、私は願いを持っただけで、今日、私が明日、御霊様の霊祭を奉仕させて頂こうと思うただけでです、私の心がとにかく、もう、あの、どうでしょうかね。本当に言葉になって出らないぐらいに感激致します、思いますと。
 そこに、おかげの受けられる場が出けないはずがないのですからね。どうぞ。